Rakraの雑記

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不幸が万人唯一の生涯の友人

ああ、気分が悪い

今日はアイドルさんのことは書かない。そんなアイドルさんのことばかり考えてもいられないのである。できれば四六時中キミに夢中したいのだが、禄を食まねば生きていけないのである。模範的資本主義の奴隷であった。

さて、不幸とはいったん何だろうか。かの有名なチャップリン(だったか?)は幸せはワンパターンで面白くないが、不幸は人それぞれで面白い(意訳)と言ったそうだが、それほど不幸のバリエーションがあるとも思わない。幸せになったことがない人はいても、不幸になったことのない人はいないだろうから、そんなこともないのだろうか。

 

寝ても覚めても気分が悪い

最も不幸なことは何だろうか。死ぬこと?ノン。死んでしまえばそれで終わりだ。不幸とは状態であって結果ではないと考えている。死ぬことそれそのものは不幸ではない。

最も不幸なこと、それは"考える"ことである。そう私は信じている。考えることが最も不幸なら、毎日不幸じゃないかと思うかもしれない。その通りだ。私達は不幸の中に生きている。

なぜ考えることが不幸なのか。それは私たち人間が、進化の過程で知恵、いわば考える能力を手に入れたからだ。鳥はなぜ飛ぶのか。ウマはなぜ走るのか。魚はなぜ泳ぐのか。簡単だ、そうしないと生存できないからだ。それぞれ進化の過程で飛ぶ能力、走る能力、泳ぐ能力を手に入れて彼らは今日まで生き残っている。能力に劣る他の生物は淘汰され死んでいった。彼らは進化の過程で手に入れた能力を以て生きてきたのだ。

カカポというオウムを知っているだろうか。ニュージーランドに生息する飛べない鳥だ。詳細は調べてもらうとして、何が言いたいかというとカカポの生息地にはカカポの天敵がいなかったということである。そのため、カカポは飛ぶ能力もないし危機に陥るとうずくまるというなかなかのノーガード精神を持ち合わせている。事実、人間が持ち込んだ犬やらネズミやらにやられて、一時は絶滅したと思われていたくらいだ。いまでは60羽くらいしか残っていない。なぜ彼らはこうも貧弱だったのか。真なる理由は学者ではないので知らないが、私が思うに幸せだったからではないだろうか。他の生物と違って、進化の過程で生きるために何か能力を手に入れる必要がなかったのだ。不幸ではないとは、つまりはそういうことなのではだろうか。

 

一年中気分が悪い

私たちは生きるためには常に考えなくてはならない。朝食のメニューから、仕事の段取り、娯楽に割くリソース配分、そして人それぞれの些細で下らないこと。金持ちになれば幸せ、と思うのは金銭が思考の代替をしてくれるからだろう。あなたもスーパーに行ったとき、値札をみて考えた経験があるはずだ。その時、財布に十分な紙幣があれば考える必要はない。福沢諭吉こそ幸福の象徴である。福だし吉だし、間違っていない。

生きるために手に入れた考える能力、それを使うということは大なり小なり命の危機なのだ。逆に言えば、進化の過程で手に入れた考える能力を使わないということは、命の危機はなく幸せということだ。残念ながら私のような小市民は常に考えていないと生きてはいけない。貧乏暇なしとはよくいったものである。不幸は身近に、影のように寄り添って離れることはないのである。